2013年8月20日火曜日

天罰考察

暇な時間があるといつも愚にもつかない妄想してはすぐ忘れるのですけど
今日は覚えてたので書き散らす。

天罰について。




よく、漫画で力のない善人が巨悪に対して、「貴様など天罰が落ちてしまえ!」という台詞を吐くようなシーンはあるかとおもいます。
この場合の天罰とはなんでしょうか。
一般に天罰というのは、悪事を行った人物に対して神がその罪に対して罰を下すということですね。
刑法で裁かれるような罰(禁固刑や罰金刑)ではなく、悪い行ないがめぐりめぐって超自然的な(悪事を行った人物にとっての)不都合が起こる状況をイメージする人が多いでしょう。
天網恢恢、因果応報。

でもこういった漫画のシーンで実際に天罰が下る御都合主義はだいたいの場合罷り通りませんよね。

じゃあ天罰はないのか、と考えるでしょう。
しかし私は天罰は存在すると考えます。

天罰が下るにはまず罪を犯す必要がありますが、同じ行いでも人によって罪の重さが違います。
刑法上はどうあれ、人間が罪を感じるのは自らの倫理観にもとった行いをとった時です。
この倫理観の違いによって重さの違いが生じます。

そして、罪が重ければ重いほどそれが心に対して重しになります。どれだけ刑法上許されようと、自分が自分を赦さない限りそれは罪となってのしかかります。
それを、罰と呼称するのだと考えます。

そして天罰とはこの罰のことを言うのではないでしょうか。罪が重いほど、自らに不都合な事が起こるとそれを罰として受けとってしまうでしょう。つまり天罰が重くなるわけです。

逆に漫画の巨悪のような、自らの行いを疑わない人間がいるのであれば刑法上どのように凶悪であろうとその人自身にとっては罪にすらなりません。そうなると罰を感じることもなくなるのではないでしょうか。

もしも正しく狂ってる人間がいるとして、殺人を是と捉える価値観をしているのであればその人にとって殺人は罪にはならないでしょう。

また、キリスト教信者で、信仰深い人ほど聖書の教えを守ろうとし、倫理観が厳しくなればなるほど"天罰"を通して神の存在を意識しやすいのではないでしょうか。
逆に、聖書にあるから、教えを広めるために、いかなる過激な犯罪行為だとしても正しいと信じていれば、罪と感じないでしょう。これが狂信者であり確信犯となると考えればある程度頷けるのでは。



とまあいろいろ考えたわけですけどよく読んだら、いやよく読まなくても穴だらけの考えですこれ。
自転車とか電車とかバスとか移動中によくこういう感じでいろいろなテーマについて考えるのですけれども本当すぐ何考えたか忘れちゃうんですよね。考えた直後は個人的に割と大きな発見だと思うんですけれど……    しかも読みなおしたらそんな大した考えでもなかったりするのでなんか悲しくなった。でもいろいろ考える事自体は好きですよ。